街はトワイライ

CD屋トマト先輩の日々

セニョールターコ【31点】

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セニョールターコ(コザ)

タコス 3ピース 550円

オニオンリング 300円)

 

シェル4 (ハード■■■□■ソフト)

具3 (肉・チーズ・レタス・トマト)

ボリューム4

サルサ3 (ちょい辛)

味4 (濃い■■□■■あっさり)

値段4

立地5

特別点4

トータル31/40

 トルティーヤ、ソフトの皮ベースながら、一度揚げてるのかな?表面がパリッとしているのが特徴か。皮、具財ともにそんなに味は濃くなく、サルサと合わさってほどよい味に。底辺20cm程度で結構大きめ。3個でも満足感あり。この淡白な感じも合わせて本場のものに近いんじゃないかなあと思った。オニオンリングも美味しい、他のサイドメニューも豊富で次は別の頼みたくなる。(けどやっぱりタコス注文しちゃうんだが)。駐車場含め、プラザハウスの中という立地はタコス屋の中でもトップクラス。

心のアルバム50

LATIN PLAYBOYS / LATIN PLAYBOYS (1994)
VANGELIS / BLADE RUNNER (1994)
TAMORI / HOW ABOUT THIS (1986)
上田現 / コリアンドル (1991)
筋肉少女帯 / 仏陀L (1988)

BEGIN / 音楽旅団 (1990)
MORPHINE / cure for pain (1993)
NICK DeCARO / ITALIAN GRAFFITI (1974)
CHERYL LYNN / In The Night (1981)
原みどり / KO・KO・RO・NOTE (1988)


ジャックス / ジャックスの世界 (1968)
豊田道倫 / SING A SONG (2004)
THE TRASH CAN SINATRAS / i've seen everything (1993)
YMO / TECHNODELIC (1981)
真島昌利 / HAPPY SONGS (1991)

佐野千明 / 屋上の終集合曲集 (2013)
スピッツ / 名前をつけてやる (1991)
渡辺美里 / Flower bed (1989)
Bjork / homogenic (1997)
MICHAEL JACKSON / DANGEROUS (1991)

 

Satomimagae / Koko (2014)
blue / sitting on the sofa (1994)
外道 / 外道 (1974)
石野卓球 / DOVE LOVES DUB (1995)
Francois Jouffa / KATMANDOU 1969 (1969)

BECK / ONE FOOT IN THE GRAVE (1994)
メンボーズ / ハニーチャパティ (1997)
たま / さんだる (1990)
原マスミ / イマジネイション通信 (1982)
BUCK-TICK / darker than darkness (1993)

 

あがた森魚 / 浦島64 (2014)
渡辺勝 / FADELES S (1994)
戸張大輔 / ギター (1999)
坂本龍一 & カクトウギ・セッション / SUMMER NERVES (1979)
ホテルニュートーキョー / ガウディの憂鬱 (2006)

PLAGUES / CINNAMON HOTEL (1994)
THE VELVET UNDERGROUND & NICO (1967)
BARBEE BOYS / 3rd. BREAK (1986)
godspeed you! black emperor / f# a# (1998)
筋肉少女帯 / ナゴム全曲集 (1990)

 

九龍風水傳原聲音樂專輯 (2014)
BARNABYS / AUGUSTUS LOOP (1993)
RATN / J (2005)
SO / SO (2003)
戸張大輔 / ドラム (2009)

haircut one hundred / pelican west (1982)
PINK FLOYD / THE PIPER AT THE GATES OF DAWN (1967)
EVERYTHING BUT THE GIRL / WALKING WOUNDED (1996)
PET SHOP BOYS / Behavoir (1990)
あぶらだこ / あぶらだこ (1985)

 

【トマトさん心のアルバム】 http://cdya.biz/kokoro/kokoro.html

本の森

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少し時間が空いたので、久しぶりに「じのん」へ。

そしたらこの二冊に遭遇し、流石じのん!という記録。

 

近年なかなかでない『幻想の街・那覇』やっと見つけた。

そして本の森を探検していたら、見慣れない分厚い『釜ヶ崎』の背表紙。

釜ヶ崎関連はいろいろ探しているけれど、こんな本は知らない。

ネットなんかよりリアルの方がずっと深いってこと、

そんな当たり前のことがどっかにいってしまってる。

昭和51年の綺麗とは言えないこの本が、

どういう経緯でこの沖縄の宜野湾の古本屋の棚に。

 

さらに、お。っと思う本が雑に床から1メートルくらいの積タワーにまぎれてたり、

正に本の森。対して人工芝。

正直ネットで買うことも最近多い。ブコフも行きます。

でもあの整頓された世界とは完全に別物だなという、

魅力を改めて体験しました。こんな出会いはない。

あつかっている商品のふくよかさというこの観点でも

「便利vs」って図式になるんじゃないかと思っている。

 

自分の店のことにも照らし合わせる。

 

郡昇作 『釜ヶ崎』についてはまたいずれ記したい。

オリジナルは昭和49年の自費出版と書かれていて、

活版印刷?というものだろうか、文字が綺麗には整列していなくて、そこもいい。

巻頭の地図には西萩の文字。

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A New World

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 Phewの『ニューワールド期』にまだはまっている。先日リリースされた『Voice Hardcore』もこの流れの中にあり、声だけで作られたかなりアバンギャルドなサウンドなはずだが、一連の作品をひとつひとつ聞き進んできた後だと、意外にすーっと入ってくるような不思議。

 なんだろう?ドローンも微音も好みじゃないのに、Phewが聞けるのはなぜだろう。「言葉」が軸にどっしりと立っているからじゃないか?とも思ったが、インストの『JAMMING』もなぜか聞いてしまうし、それなら理由は一貫して「歌」が流れているからだろうか?そんな月並みな解説持ってきてもどうしようもないし、わからないままでいる。

 そしてさっき調べてたら、このニューワールド期の前2012年にproject undarkというユニットがあることを初めて知った。そのアルバムのタイトル『ラジウムガールズ2011』にピーン!と来た。ああ、やっぱり『ニューワールド』に感じていた、あの幕の向うに見えてたものはあってたんだ!浜辺の歌、浜辺の歌、浜辺の歌、、、遡って手に入れたカバー集アルバムの全曲を持ってきても、この「浜辺の歌」1曲に到底かなわないと思う。

 

以下、2017年1月の記録。

 

 ヒリヒリした音楽。不気味な音楽と共に緊迫した音楽が巷になくなってきている。なぜだろうか。考察はまた別の機会にしても、はじめてのPhewはものすごく刺激的だった。ソロでははじめて手にしたこのアルバム、それでも出たのは2015年末なので一年遅れで聴いた。このまるでSuicideとBrigitte Fontaineが合わさったような音楽は電波的にビビビと伝わり、頭の中のものがいろいろつつかれる思い。超濃密。
 まず一通り聴いたあとに見つめるこのジャケットが強烈。この汚れた幕が開いた向こう側には一体どんな景色が広がっているんだろう。じっと見つめてしまう。一面広がる瓦礫のビルディングか、どこまでもつづく向日葵か、やっぱりなにも変わらない灰色の街か。ニューということは何かの転機があろうが、やはりこのアルバムのテーマは3.11だと思われる。タイトル曲は電気エネルギーの歌だ。あの日からの、ニューワールド。そしてPhewがアナログシンセサイザーを手に入れた日からのニューワールド。
 知らなかったが「終曲」というのはデビュー曲のようで、その再録とアルバム最後の「浜辺の歌」カバーとをつなぐ想い。すぐに浮かんだのは映画『渚にて』だったが、実は映画を見たことはない。カバーはもう一曲ラモーンズの「チャイニーズロックス」で、唐突すぎる気がしたが、もしかしたらこれはチャイナシンドロームからのチャイニーズだったり・・・などとここでも頭の中がつつかれる。そんな鳥肌がそこかしこで。


たくさん文字を読みました
たくさん映画を見ました
たくさん音楽を聴いたけれど
全部忘れた
「わたしのワルツ」

 

Phew01 (CDR 2014.8.31)

Phew02 (CDR 2014.9.19)

Phew03 (CDR 2014.10.14)

A New World (2015.12.2)

Jamming (2016.2)

Phew04 (CDR 2017.2)

*Light Sleep (2017.3)  from Phew01,02,03

Voice Hardcore (2017.11.1)

冷却

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 VJ企画の外タレライブがことごとくキャンセルになっている件に部外者ながら憤りを感じているが、そこから、インターネットの無い時代にも同じことが起きていただろうかちょっと想像膨らませてみる。例えばライブ会場でキャンセルが告げられるとしよう。集まっているお客さんは、その理由が不条理な場合(不条理じゃなくても、では無いのは日本的なつつましさかも)、怒りのパワーを増大させ、暴動になるかもしれない、きっと主催者に大勢で詰めかけるだろう。その群衆の結束した力はなによりも強力だし脅威だろうから、「悪者」は下手なことはできなかったはずだ。

 インターネットがある現代に戻る。怒り、そしていわば民衆のパワーを凝縮するような場所をさがしてみるが、段々とその場所は消されていっているはずだ。そんな個人の小さなパワーを交わせる場所はせいぜいSNSの中だろうか。2ちゃんねるくらいか。しかしそれは悪者を正すような結束した実際の熱に、動きにはなりにくいはずだ。個人は個人で分断されていっている。されているというか自らそうなるよう進んでいる。ひたすらシカトしてほとぼり醒めれば済むなんて考え、まるで政治家か。と思うが政治の世界への対抗にもまったく一緒なんじゃないだろうか。デモ、共謀罪。 

 ちょうど読み返していた釜ヶ崎の歴史と現在を説いた原口剛『叫びの都市』(2016)の記述ともこの状況は正に重なり、群れない群れる場所を持たない、いわば熱の冷めた現代の個人・民衆の生きる姿がさらに明確になる。

 釜ヶ崎とは、使い勝手の良い労働力を寄せ集めるべく、産業資本の要請によって生み出された空間である。しかし、釜ヶ崎という空間への労働者の凝集は、資本にとって厄介な集合的身体を生み出す種火ともなった。そこから、「寄り場」としての釜ヶ崎は生成したのである。『叫びの都市』 p352

  受動的な「寄せ場」だけでなく、労働者が自ら結束する「寄り場」であったという意味で、多くの労働者が生活する釜ヶ崎の喧騒は、情報の交換であり、団結するロープでもあったわけだ。その寄り場は近年解体させられつつあるが、実は根本的な問題は解決しておらず、ただ社会的に不可視化されたに過ぎず、「社会の総寄せ場」「釜ヶ崎の全国化」は確かに進んでいるように思う。ネットカフェ難民や派遣切りというキーワードを挙げればすぐに気づくように、リアルな寄せ場は縮小されたかわりに、貧困者たちはむしろ数を増やし全国に広がり、彼らはネットカフェに押し込められ、スマホの呼び鈴ひとつで狩り出される。ネットカフェの個室は個人個人にきれいに仕切られ、

 似たような境遇に置かれた者同士が群れと化すための物的条件を待たぬまま、かれらは「スムーズ」に流動させられる。『叫びの都市』 p351

  孤立し冷却され全ては他人事になっていく。