街はトワイライ

CD屋トマト先輩の日々

投稿①

レヴューのようなもの

 音楽と出会うのは偶然だ。段ボール箱の中のレコードをめくる時に手が止まる瞬間。深夜にラジオをつけた時たまたま流れていた曲。クラブでDJがかけたレコード。好きな女の子が好きな歌。とりあえずそんな偶然を全部まとめて縁と呼ぼう。
 去年の暮れにCD屋でCDを買った。このCD屋は魚屋とか酒屋とかそういうことではなく店の名前がCD屋なのである。とはいってもCDを売っているわけだから魚を売っているから魚屋というのと同じそっちのCD屋でも間違いでは無い。ともかくCDを買った。でもって去年買ったCDはこれ1枚だけだ。だから2014年のマイベストアルバムはこれだということになった。
 その日は抜け落ちたように夕方から時間が空いたので「ああそうだ」と何か忘れ物を思い出したようにCD屋へと向かった。珍しく小金を持っていたせいか、久しぶりの物欲はチリチリと静かに燃えていた。棚に並べられたCDを手に取っては戻してを繰り返していると、来月のいくつかの支払いが雑念のように浮かんで、物欲の灯火は次第に小さくなり消えそうになっていった。それを知ってか知らずかこのCD屋の主はおもむろにBGMをチェンジした。シンプルなピアノのフレーズが店内に流れて歌が始まった。その瞬間「物欲の炎が再び燃え上がった」などということはなく、もうすでに炎は燃え尽きてしまっていた。しかし燃え尽きた後はちょっと暖まった部屋みたいでいい具合になっていて、そこにすっぽりとその音楽は収まり、僕はこのCDを手に入れ、物欲は成就した。

『yukaD in the house』

縁あってこの音楽と出会った。彼女のことはよく知らない。以前の曲もよく知らないし「yukaD」のDは何のDなのかも知らない。帰り道に車の中でCDを聞いた。新しいCDは久しぶりだったのでキャラメル包装を開封するとき少し手こずった。新譜を聞くときにいつもするように1曲2曲と少しずつ聞いてはスキップしていく。また1曲目に戻った。初めて聞くアルバムのまだ全体がつかめていない時間が好きだ。知り合ったばかりの女の子とテーブル越しに対面しているみたいだ。何度か繰り返し聞くとだんだん輪郭が浮かび上がってくる。また1曲目に戻る。そのうち、ある感情が湧いてくるのに気がついた。
このCDを誰かにすすめたくなってきたのだ。「これいいよ」と誰かに言いたいのだ。最先端の音楽でもなく特別に歌がうまいわけでもなく超絶テクニックを聞かせるわけでもないが「めっちゃいいよ」と誰かに言いたいのだ。友達とか恋人とか家族にではなく不特定多数のどこかの誰かに「聞いて」と言いたくてたまらなくなってきたのだ。感情というより症状に近いかもしれない。この症状はCDを繰り返し聞く度、進行していった。新手の商法か、はたまた新種のウイルスなのか。なぜだろう、わからない。わからないまま聞き続けた。いつのまにか自然と歌を口ずさんでいた。そのときに気がついた。意図的なのか無意識か、このアルバムは開けっ放しだ。まるで不用心な家みたいだ。鍵をかけ忘れたドア、ガラスのない窓、くぐり抜けられる垣根のほころび。ちょっとしたその隙間は彼女の歌への入り口なのだ。「そこから入っておいで」と語りかけていて僕はもうその中にいた。

 ポップミュージックの幸せな形の一つは誰かのものになることだ。アーティストだけのものだった曲はそこを離れ、遠くに届いて自分だけのものではなくなる。所有ってことじゃなくて音楽として歌として誰かの中に入って溶けていく。そしてその音楽も誰かを招きいれるために開かれていれば、そこから僕らもその音楽の中に入っていける。その音楽がどこかへ飛んでいくとき、僕らを乗せてどこかへ連れていってくれる。僕らの歌はどこかで誰かが口ずさんで、また誰かの歌になるのだ。

 
 
CDを聞き始めてから何日目かの朝にその音楽は僕の中にスーッと忍び込んできた。
その日は今年初めての晴れた日で、この歌は晴れた日がよく似合う。
『yukaD in the house』は幸せなポップミュージックだ。

いけそう、もっといけそうだよ、ダンシングクイーン。



2015年2月某日 occultrecord