読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

街はトワイライ

CD屋トマト先輩の日々

現代思想 大阪

f:id:cdya:20160130153536j:image

現代思想 2012.5 特集大阪
 
黒不浄 赤不浄
中沢新一 「アースダイバー的大阪の原理」
 
  天使
万博、それは二十一世紀の現在からしたら、いわば過去に描かれた未来として回顧される。やはりわたしたちは未来のおわったあと生まれてきたのである。たしかに幼いころ長瀬川は両ワキに化学的な廃水をしたがえた三色川であったし、農業用水路のフナは背骨が屈曲した奇形、必死でみつけたドジョウを連れてかえろうにもほどなく死んでしまう――なまものである都市は、たしかに七〇年代末すでに腐敗したかのようだった。ならば太陽の塔とは、あの物質的なフォルムをもって忌まわしき記憶と不気味な予感とを置き去りにして巨大な構造転換を告げるために来た、新しい天使ではなかっただろうか?
 ベンヤミンが「歴史哲学テーゼ」においてパウル・クレーに見出した、あの天使である。
 (櫻田和也ポストモダン都市における唯物論詩学・試論」P215-216)

 酒井隆史通天閣』周辺で度々目にしていたベンヤミンという人については全然わかっていなかったが、クレーの「新しい天使」を調べたら、なるほどそういうことかとつながった。さらに思い出すのはウディアレンの映画「ミッドナイト・イン・パリ」。あれも1920年代で、憧れの20年代にタイムスリップして喜んでいたら、当時の人々はひたすらさらに過去へ憧れていたとういうような内容、どっかの古代の壁画に「最近の若者は!」と書かれていたというそういうアレである。一体いつがいい時代なのか。

 太陽の塔が、アンチ万博を意味していたという岡本太郎の企みを知ったのは何であったのか思い出そうとしてるが・・・田口さんのレコード寄席、万博特集だったかもしれない。あの時同時に「人間の想像のピークは60年代だったんじゃないか」という発言がとても記憶に残っている。

 新世界の元になる第五回内国勧業博覧会(1903年)そして大阪万博(1970年)、このような博覧会の表向きとは逆にのびる、、というか表向きが華やかだからこそできる見える影、、の部分、注目すべきかもしれない。2020年には東京オリンピックがある。

 

 

  第五回内国勧業博覧会は、空間的理念の表現として、明るさと高さをもっていた。それはまず、日本ではじめてイルミネーションに彩られた「電気の博覧会」であった。評判をよんだ夜間開催は、昼も夜も不在である抽象的時間の浸透をしるしづけている。(~中略~)

 絶対王政期に街灯がもうけられたパリでは、大革命からパリコミューンにいたるまで、民衆蜂起と街灯破壊は不可分だったはなしは有名だ。闇の奪還は、戦略上も生活上も、一つの民衆的要求項目だったのだ。

 (酒井隆史+マニュエル・ヤン「歴史の亀裂を遊歩する山猫たち」p187)

  こういう『通天閣』への解説・注釈を読み咀嚼すると、なぜ私が新世界や釜ヶ崎にひきつけられるのか、少し見えてきたような気がする。しかし「闇の奪還」とは素敵な。すぐに妖怪を思い出した。この中でノスタルジーという概念にも触れているが、きりの無いように思える懐古主義のループの中でも「闇が闇だった時代」という表現が好きだ。

座敷わらし考

 

 

民衆と民間経営者と阪急の微妙なまぜこぜの力が「民都」の力となり、「公都」と相乗的にせめぎあい、経済的に「商都」「工都」として成長し、さまざまな移民を受け入れて行った「移民都」として、社会的に大きくなっていったというのが大阪の特徴ではないでしょうか。

 (水内俊雄 「公的」大阪の制度疲労と、新たな「民都」の創造 p243)

 

 

 この現代思想の大阪特集、今『通天閣』を読んでいますというお店の常連さんが存在を教えてくれて感謝。「文学界2012.7」の対談とあわせて、酒井隆史通天閣』を紐解く1冊かと思う。『通天閣』もう一度読み返さないとなあと思い始めている。