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街はトワイライ

CD屋トマト先輩の日々

逃亡の近代

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 私はそれを「生業のなだらかな平面」と呼んでいる。こうしたなだらかな平面がさまざまな規制や法的ルールによって水路づけられ、がんじがらめになるにつれ、人は、賃労働か失業かという二者択一につねに直面し、日々不安と恐怖に苛まれながら賃労働の体系を内在化し、実態としても賃労働者化(あるいは失業者化)を余儀なくされることになる。なぜ権力は、いま、露天や屑拾いのような雑業の糧をかくも取り締まりたがるのかも、その点から考える必要がある。

酒井隆史 『逃亡の近代』 アステイオン079 p126-127

 

 これまで移動や移民の現象は、経済法則や政治の動向に左右されて生じるとみなされ、そこに内在する欲求や感情、自由への希求といった側面は二の次とされることが多かったようにおもわれる。とりわけ、資本主義こそがこうした移動や移民を動かす動因であるようにとらえなれる傾向は根強かった。しかし、資本主義とは、こうした運動をむしろ封じる対抗運動ではなかっただろうか。

酒井隆史 『逃亡の近代』 アステイオン079 p133

 

  目からうろこ!というような電球が頭の上でピカーン!とまでは来てないが、もう2度ほど読んで他のことも反芻すればでっかいテーマを抱けるかもしれない。2つめに引用したあとがきの部分が特に。確かにそこに暮らしていた人間が先であって、資本主義なんかが先ではない!大書『通天閣』をわずか14ページに縮小したようなこの文章は、その2年後に書かれている。

 資本主義という巨大な「網」のイメージ。魚捕りだか虫取りだかの網。いまや全世界を覆う。それこそ赤子から死んでからも?老若男女をその網ですくおうとしている。昔はテニスのラケット状?いやもっと網の目は大きかったので、そこからこぼれるもの、逃亡するものは多く居たが、というかその姿は本来、人の自由さであって誰にも留まれ!という権利はないはずで。全てをすくうため網の目は次第に細かく細かくなっていく、誰も取り逃さない。こぼれることを許さない。全員が網の主の思う場所へ引っ張られていく。すくうが「救う」ではないこと。

 そもそも「逃亡」とは捕まる、囲まれる、からそこを起点に逃げるのであって、野良犬が昨夜寝た場所から移動することは逃亡とは言わない。ことを考えると権力やら網を持つものの存在への懐疑、本来人間がもってる自由、野良で居ることのパワーを改めて考えてみる。

 例えば、酒井隆史、原口剛らは言葉と文字というハサミでその網をやぶろうとしているのでは。こっちだよって。網の中の人数は、網を持つ者より圧倒的に多いはずであり、一丸となって動けば実は網ごとぶっ壊せるはず。別書の『反東京オリンピック宣言』を呼んだ後だったんで、なにか、なにが「Tポイントカードはお持ちですか?」だ!引き続きそんなモン作ってなんかやらん!という思いが強まった。(そんなまとめでいいのか・・・

 全員を掬って管理しようとしてる網、その網目がオゾンホールじゃないが、なんか擦り切れて薄くなってるとこが釜ヶ崎なのかもしれない。しかしガンガン網目は周囲から頑丈で細かいものに修復されていってる。あそこにドンキができたこと、どう考える!?