駅前の崩れかけた 灰色のビルの中で
鳩のもげた羽根を 拾い集め燃やした
炎の影から生まれた 真っ黒い馬に乗って
駆け抜けた街の景色 色とりどりの人が踊る
柔らかな感触を 温かい体温を
過ぎ去った夏の日を 解き放った鎖を 残して
大空へ
弟の亡骸を抱えたまま歩く足音が
大地から生えている針が刺さる音が
可愛らしい母親が歌う子守唄が
駅前の崩れかけた灰色のビルの中
聞こえる
ペガサス 「フェニックス」
駅前の崩れかけた 灰色のビルの中で
鳩のもげた羽根を 拾い集め燃やした
炎の影から生まれた 真っ黒い馬に乗って
駆け抜けた街の景色 色とりどりの人が踊る
柔らかな感触を 温かい体温を
過ぎ去った夏の日を 解き放った鎖を 残して
大空へ
弟の亡骸を抱えたまま歩く足音が
大地から生えている針が刺さる音が
可愛らしい母親が歌う子守唄が
駅前の崩れかけた灰色のビルの中
聞こえる
ペガサス 「フェニックス」
山葉 『弓になって』 2001
afterメンボーズ、聞くと勇気が湧く、どっしりした不安定感、もう消えそうな音楽の芯を感じる。帰ってきて欲しいと思う。「女性」ということかもしれない。メンボーズ2人のうち、どっちがどっちだかこないだ調べた気もしたが忘れてしまった。/ヤッホー山葉/山葉の心/
上田現 『森の掟』 1996
森の掟とは岡本太郎の作品かららしく。/森は僕をこらしめるだろうか/まあ命までは/森をのぞく者は又森にのぞかれ/ しかし森=山か?どうみても森ではないジャケがまた不思議である。我が心の上田現、セカンドアルバム。
筋肉少女帯 『猫のテブクロ』 1989
⑤「Picnic at fire mountain」 ⑥「Go! Go! Go! Hiking Bus」 ⑦「最期の遠足」と改めて思い返すとかなりの山アルバム。うっちー印の山プログレミニ。後に「山と渓谷」という曲もあって、あれも内田曲だな。/キノコ山山中で行方がわからなくなりました/
泊 『山の歌』 2014
山男にゃー惚れるなよつことです。キコリ、キコリには常に髭が生えているだろうか。しかし山が男ならば海は女だろうか。セカンドアルバムにこのシングル4曲すべて収録されているが、アレンジが全然違います。/住めば都の山小屋暮らし/ヤッホホイ/唄も雲に投げて/
戸張大輔 『ギター』 1999
裏ジャケの頂上に座る姿に目がそらせなくなる。山。すぐさま呪文やら魔術をイメージするこのミュージックには、もれてくる月光を感じるし、それは闇の毛布。/ふたりのゴンドラに灯ともしたんだ/夜空に浮かぶよ愛のメッセージ/
「西洋化」「近代化」について改めて考える。例えばパリやヨーロッパは「古い街」だという認識だったが、それが少し崩れた。確かに歴史は古く建物も街も古いまま残っているかが、果たして住んでいる人間の文化・民族的にはどうであろう。祭り、儀式、アミニズム、、、むしろ逆かも知れない。(祭式化)
それはさらに、以下のように変奏されている。やや長くなるが、クロソウスキーはこんなふうに述べていた。すなわち、この画家であり社会学者である日本人は、パリの仲間や先輩たちが、呪術・生け贄・聖なる遊び・通過儀礼の仮面などについて、しばしば議論するのを聞いていたのだが、これらの人々ははたして、こうした言葉に隠されている非芸術的な実践のもたらす効果を、ほんとうに実感したことがあっただろうか。岡本太郎はその出自によってだけでなく、その日常的な環境によって、また、日々の工業化にもかかわらず、深く祭式化されている社会に固有の情念を負わされて幼年期を送ったがゆえに、その血のなかに、思考や感情の習慣のなかに、社会学者・民俗学者・精神分析学者となることを可能にし、あるいは強制したものがすでに宿されてある。それにたいして、われわれ西洋人の場合には、逆に、それらが絶滅してしまったことそれ自体が、社会学者・民俗学者・精神分析学者となることを可能にし、あるいは強制したのである――、と。西欧社会そのものに向けての深い内省に裏打ちされた言葉が、静かに響いている気がする。
『岡本太郎の見た日本』p108
日本は、比較的古い昔のものが、比較的多くのこっている社会である。だから、自己のうちに原始、古代を発見する利点がある。しかしそのような過去が現在の自己の社会の中に欠落しているか、または生き残っている度合いの非常に薄い社会では、原始や古代をしろうとすれば自己の属する社会の外に出て探すよりほかない。西洋で発達したエスノロジーが、未開社会の文化型を外側からしろうとする方法であるのに対して、柳田民俗学が、それを内側からとらえようとする学問であるというちがいは、一つには、そのような社会の歴史的な発展のちがいによるのであろう。(鶴見和子「われらのうちなる原始人」)
『岡本太郎の見た日本』p109
ものは合理化され、もののエネルギーは人間のための、人間の役に立つ、という方向でだけ、文字通り受け容れられているのである。そこでは人間との矛盾、相剋の面が切捨てられ、人間の絶対的な対決がうすめられる。はぐらかされる。オブジェ(もの)、社会、人間の―いわば三角関係の―主体的な対決が切捨てられると、抽象的な物質、概念的な社会へのオプティミスムがあらわれる。
動物的な天衣無縫さ―たえず物質とかかわりながらも、環境を、役に立つ道具と、それ以外の、厄介ではあっても精神的には痛くも痒くもない自然とに帰してしまう、動物的な楽天主義。(岡本太郎「レジェ作品のオプティミスム」)
『岡本太郎の見た日本』p115
相剋=対立・矛盾する二つのものが互いに相手に勝とうと争うこと。
オプティミスム=楽天主義
ヨーロッパではキリスト教の激しい一元論的な神によって、民族の、土地の古い神々は根こそぎ退治されてしまった。その血の統制をぬって、悪魔に化身し、暗い生命力をもり返そうとする。そういう断絶はわが国では見ることがない。それは日本人の自然にそなわった寛容さであろうか。いずれにしてもすべてアニミズム的世界に同居してしまうのである。(岡本太郎)
『岡本太郎の見た日本』p172
太郎が望んでいたのは、いま・そこに横たわる国境に縛られることなく、もっと広々とひらかれた意識をもって、過去、そして現在の、この列島に生きるわれわれの本来のありようを眺めわたすことであり、それ以外ではなかった。いわば、太郎ひとりはいつだって、正しさや確からしさを競い合う知の現場(あるいは、知のゲームか・・・)からは遠く、見えない知の呪縛をほどくためにのみ闘っていたのではなかったか。
『岡本太郎の見た日本』p361
上記のおわりに書かれた赤坂氏の慕う言葉が「岡本太郎が見た日本」「日本を見た岡本太郎」をひとまず総括しているように感じつつ、とりあえず、この本を読んで、岡本太郎は単に、芸術家ゆえに鋭い感覚を持った男。ということでだけはなく、パリ時代からしっかりと民俗学を学んでいたということを知った。何度も読み直している『沖縄文化論』の視点のすごさは、太郎のものすごい直感とその根底に身についた知識と両方とを持って見られたものだったわけだ。
もう二冊。『日本再発見』『神秘日本』は去年やっと文庫本されたばかりなのだろうか?みかけたことがなかった気がするのでそうなのかもしれない。読まねばなるまい。
「鶴一」
ホルモン屋。西成警察署前を南へ過ぎた十字路を右に曲がった萩之茶屋商店街にある。向かいはしばしば投石されたパチンコ屋日大会館。(中略)カウンターと椅子席のほか奥に小上がりの畳敷もある。
『釜ヶ崎語彙集1972-1973』p136
完全にイメージは「チエちゃん」・・・パチンコニチダイはまだ同じところにあるぽい調べると。鶴一はさすがにない。「鶴一、ホルモン」で検索すると鶴橋の店がでてくる。いや、それより、今の店がなんであれ、その場所にカタチが残ってる可能性はあるか・・・
今読んでるまたニュー釜ーな本面白い。1972-73のレポ。あがたさんが強烈だったと回想してた第2回春一番が72年。あの時の街歩ける。
どちらも日本を象徴するといえるアニミズム(アニマ)とアニメって似てるな。偶然かとおもったら全然そのままだった。
「animation(アニメーション)は、ラテン語で霊魂を意味するanima(アニマ)に由来しており、生命のない動かないものに命を与えて動かすことを意味する[1]。」
日本に染み入るアニミズムと、日本が好きな得意な特異なアニメーションは別物じゃないのがわかって。なるほど。
どれほど頼りなく無力に感じられるとしても、この時代には、すべてをアニミズム的な世界に溶かし込み、共存させてしまう、わたしたち自身の多神教的な精神風土と、そこに見え隠れしている寛容のモラルに学ぶ必要がある、とわたしは信じている。
『岡本太郎の見た日本』p172
シリーズ「愛しのBサイド」第一回目は、原みどり「LA LA LA」(1988)
毎度ひとりで騒いでいる80sナイスシンガー原みどりの一曲。しかも年代的に一番好きな2ndアルバム『KO・KO・RO・NOTE』(1988)期アルバム未収録曲。しかし今改めてクレジット調べてみると編曲は椎名和夫となっているので、流れ・録音的には1st『Mido』(1987)とものと考えていいかもしれない。ちなみに『KO・KO・RO・NOTE』の編曲全てとサウンドプロデュースは幾見雅博という方でジャズギタリストのようだが、かなり気になる。セカンドのあのなんとも言えないあの年代の空気が好きすぎるので。似てる感触はシェリルリンの「IN THE NIGHT」(1981)だけど、そっちは一緒にやってるのがレイパーカーJr。ゴーストバスターズ。だからやっぱ原みどりってR&Bだと思うし、すぐに対比してでてくるCHARAが出てくるのはもうちょい後の90s、原みどりのソウルとキャッチーさはちょっと早すぎたのかもしれないと、現状みると思う。あとはユーミンの影か、、財津和夫とのデュオデビューも謎といえば謎である。ソロ最後となってしまう『アマロ・ジャバロと言えた日』(1989)でもう一度その「償いの日々」をひとりでカバーしてることを思うとなにかしら呪縛のようなものさえ感じてしまう。
さてここでしか聞けないこの曲「LA LA LA」は伸びやかなボーカルと、アーバンポップな80s後期音色がやっぱり気持ちよい原みどりワールド!1stアルバムは9曲しか入ってないのに、もれたとしたらなんでなんだろ。何度も言ってますがスパンクハッピーより絶対ソロがいいす。
シリーズ一回目にしてこの曲選んだのはやっぱアルバム未収録しかもCD化されてない!ということで、むちゃむちゃ好きで聞いてるアルバム、その同じ時期に実はまだ聞いてない曲があった!!という発見はやっぱすごい嬉しいワクワクさん。B面曲ていいよねー(いいよねー)
原みどり 「LA LA LA」
作詞/作曲:原みどり 編曲:椎名和夫
7インチシングル『too young』B面にのみに収録。
※アルバム未収録 ※未CD化
グッドBサイド度数4 ☆☆☆☆★
マルコムは、憎しみを煽ったというのではなく、むしろ、黒人たちの自己や他者にむかう憎しみを怒りに変えたというべきです。この二つの感情はわかちがたくからまりあっているとはいえ、憎しみは状況総体や制度ではなく特定の人間や集団にむかいがちです。憎しみは、その感情をもたらす原因に遡り、根源的次元から根絶しようというのではなく、その結果であるもの―人間、集団―を排撃したり殲滅することでカタルシスをえるという行動をみちびく傾向を強く帯びた感情だとおもいます。それに対して、怒りは憎しみそのものを生みだしている、より広い条件にむかう、より思慮にひらかれた傾向があるようにおもわれるのです。権力はこの憎しみという感情のもつ傾向につけこみ活用します。(後略)
『暴力の哲学』を読み返し始めています。ざっくりとこの本から、あ、怒っていいんだ。という気づきを得たと思います。日本人そしてきっと特に沖縄の人、さらに私自身は、怒るのが苦手な人たちだと思う。岡本太郎の『沖縄文化論』をまたここで思い出す。「美ら瘡(かさ)」の話。
沖縄には「美ら瘡」という面白い言葉がある。天然痘のことだ。近ごろは病気自体がなくなったので、あまり使われないようだが。
どうして瘡が美しいのだろう。
折口信夫はこれについて、
「病いといえども(他界からくる神だから)一おうは讃め迎え、快く送り出す習しになっていたのである。・・・海の彼岸より遠来するものは、必ず善美なるものとして受け容れるのが、大なり小なり、われわれに持ち伝えた信じ方であった。」
と報告している。
適切な見方である。しかしそういう過ぎ去って行く神秘的なものに対する儀礼的な気分だけでは、この微妙な表現は解明しつくせない。もっと現実的な、一種のおそれをこめた弁証法的な表現がそこにある、と私は考えるのだ。
災いとか伝染病を美称でよぶのは、なるほど、ひどく矛盾のようだが、しかしかつての島の人には切実な意味があったに違いない。複雑な心情である。
外からくるものはいつも力としてやってきて、このモノトニーの世界に爪あとをのこす。それはよし悪しを抜きにして「貴重」なのである。だから畏れ敬って一おう無条件にむかえる。
だが何といっても、これは天然痘なのだ。決して好ましい客ではない。この凶悪に対し、彼らは無防備なのである。卑しめたり、粗末に扱えばタタリがひどいだろう。なだめすかして、なるべくおとなしく引き取ってもらわなければならない。
恐ろしいからこそ大事にする。人間が自然の気まぐれに対して無力であった時代、災禍をもたらす力は神聖視された。”凶なる神聖”である。それは”幸いなる神聖”と表裏である。幸と不幸とがどこで断絶し、連続しているか、それが誰にわかるというのだろう。近代市民のように功利的に、吉と凶、善と悪、まるで白と黒のように、きっちり色分けして判断し処理することはできない。幸いはそのまま災いに転じ、災いは不断に幸いに隣あわせしている。それはつねに転換し得る。
強烈に反撥し、対決してうち勝つなんていう危険な方法よりも、うやまい、奉り、巧みに価値転換して敬遠して行く。無防備な生活者の知恵であった。
私は現代沖縄の運命について考える。占領され、全島が基地化されている。ここはもはや沖縄であって沖縄ではない。当然それは民族にとっての言いようのない苦しみである。それは天然痘―もっと厄介である。残酷な実情について私たちはすでにいろいろ聞いている。反抗はもちろんある。たとえば先頃のアイク訪問の際、三十センチ間隔にずらりと着剣して構えたカービン銃の威嚇の前で、デモをかけた。そのような近代意識の上に立った政治行動は、現代沖縄の傷口の端的な叫びである。しかし、にもかかわらず多くの沖縄人の、あのやわらかい表情、運命的力に対して恭順に、無抵抗に見える態度の底には、チュラカサの伝統、災いをいんぎんに扱って送り出してしまうという、辛抱強い護身術が働いているのではないか。
岡本太郎『沖縄文化論』中公文庫p184-186より
「美ら瘡」という受け入れ方は、哀れというよりもむしろたくましい、翻弄される運命を持った小さな島小さな国が、己のアイデンティティを守っていくために長年育んできた方法であり、我々の心の中に無意識に今も宿っているものだと思います。その沖縄の人たちが怒りを表す時。それがどういう場面なのか。他界の人たち、そして何より無意識な我々自身が、今一度知る必要がある気がします。