水野阿修羅 『その日ぐらしはパラダイス』 ビレッジプレス 1997年
『叫びの都市』出版イベントでのゲストとして話されていた水野阿修羅さん、その言葉がとても印象的だったので、たぶん唯一の?本を早速手に入れた。京都新聞に連載されていたコラムをまとめたこの本、案の定、釜ヶ崎関連のものとして、また重要な1冊である。いつも「釜ヶ崎」とか「通天閣」をキーワードに本を検索するので、この本はまったく知らずに居た。
そしてどんな小さな町にも安宿、木賃宿があった。
だがこれらはたいてい駅裏などの交通の便のよいところにあったため、高度成長期に立て替えられると高級なビジネスホテルになったり、てっとり早く高いお金がとれるラブホテルに変身し、作業衣姿の日雇い労働者など立ち入り禁止にされてしまった。
水野阿修羅 『その日ぐらしはパラダイス』 p92「全国渡り歩くのもたいへんに」
安く住める場所が無くなる→ホームレスが増える。という単純な構造。
釜ヶ崎から家族持ちや女性が減った最大の原因は安いアパート、長屋がなくなったことにあるが、身障者が減ったのも同じ理由による。バラック街にいたっては完全に消滅してしまった。
水野阿修羅 『その日ぐらしはパラダイス』 p111「温かさ」求める障害者
そして六一年八月には釜ヶ崎暴動も起こっている。高度成長の波に乗れなかった人びとが釜ヶ崎に集まって来た。子どももいっぱいいた。だが当時は、「スラム」のイメージが強く、バラック街もいっぱいあり、家族で住むことができた。p101
行政の政策は、ひたすら「スラム」というイメージを払拭しようとすることに費やされた。そのために、子どもを持った家族は、優先的に郊外の公共住宅に移り住むようにされた。※(私には追い出しのようにみえた)
七〇年に大阪で万博が開かれることになり、その工事のため全国から男たちが仕事を求めて釜ヶ崎に集まって来た。(私もその一人だが)
ドヤ主たちは一人でも多くの男を泊めようと、安アパートを壊し、ドヤに立て(ママ)替えた。行政によってバラック街もなくなった。家族で住むスペースがどんどんなくなっていった。そして、女性もどんどん減少していった。
水野阿修羅 『その日ぐらしはパラダイス』 p102「家族ですみにくい街に」
コラムなのでさらっと読めつつ、実際労働者として生きている阿修羅さんの文字はなんと言っても内容が具体的。釜で実際働いていた実体験、加えて客観的に見る視点も持ち合わせているので、本当にぐっと入ってくる。
「使いたいときに使える」労働者を数多くストックしておくための、「カイコ棚」「カンオケ式」と呼ばれるような詰め込み式ドヤへの変貌など(ひどい一文だが、労働者はそう扱われてきたということ)、建造環境の変容はまた『叫びの都市』にデータとしても詳しい。→二章「空間の生産」p110
釜ヶ崎を調べようとした当初の理由「なぜ萩之茶屋小学校は廃校になってしまったのか?」への回答へつながる流れもここにこうして書かれており、『叫びの都市』を経て、この本でひとまず大阪ディープサウス探索の一幕を閉じれた感じがしている。