街はトワイライ

CD屋トマト先輩の日々

通天閣

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 暑さが和らいだくらいからだっただろうか、急に本を読まねば!と思い立ち続けざまに、しかも通天閣~新世界~釜ヶ崎あたりのモノを集中して読んだ。さすがにちょっと息切れ気味でまだ数冊読んでないものあるが。

 初代通天閣、ルナパークが開業した大正初期の新世界、ここにこんな映画館があったとか、入り口にインド人もぎりがいたとか、「美人探検館」のナゾとか、、、単純に新世界の様子成り立ちを知るには橋爪紳也『大阪モダン』(1996)がおすすめ。氏は『大阪新名所 新世界・通天閣写真帖 復刻版』の監修も行っている方で、並べた本の中でも新世界の、大阪の街を考察する草分け的存在の方だと思われる。地図的に。

 対して文字的に。ほぼ同じ頃に書かれていた橋本寛之『都市大阪 文学の風景』(2002)通天閣からさらに視点を広げ、大阪の街を、考察していく読み取ろうとしていくこちらもオススメの書。こちらは例えば新世界なら新世界の、その土地を描いた小説の文章をいくつも抜粋し集め、その表現をもって多方向からスポットライトあてることで、その土地の匂いや特徴を浮き彫りにしていくような書き方で、そこには昔の写真や地図では読めない心情的面白さ発見がある。

 さらにこの『都市大阪 文学の風景』を元にしてると思われる、酒井隆史通天閣』(2011)は圧倒的その存在感からしても、もう途中何の本読んでいるかわからなくなって何度か断念しようと思ったくらいの迷路的でやたらありあまる熱量、というそれ自体が通天閣釜ヶ崎のあの地域を体現しているかのような、、、宮崎駿風立ちぬ』手法か・・・ しかしこの強烈な本を中でも一番最初に読んだことがきっかけで、上記の2冊を含む14ページに及ぶ参考文献を手にしてみようと思えたことは順序的によかったのかもしれない。

 まだ欲しくても手にできてないのは市販じゃないやつ。『通天閣 30年の歩み』『通天閣 50年の歩み』あたり。今度大阪行ったときに探せるだろうか。しかし3年前の2012年が通天閣、新世界ができてちょうど100年目だったのです。その次の年、私は始めて通天閣に登った。

 

飛田ホテル

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黒岩重吾 『飛田ホテル』 1971

 

 なかなか探せなくてやっと見つけ、読んだ。出てくるのは飛田、釜ヶ崎、天王寺・・・あのあたりを舞台とした男と女のミステリー?何かしら過去を背負っている女性が中心となる物語だが、なんというか読んだ後の残り香としては、残るのはどっちかというと男性の香りのような、そういうテイストだった気がする。男の読み物ってことだろうか。姉妹だったり障害だったり、マロニエ堂の歌を時折思い出した。

 そう、この本を探していたのは、豊田さんが好きな本として挙げていたから。もう無くなってしまったんだろう、この3月には探せなくなってた萩之茶屋近辺の古本屋でこんな文庫本並んでいたような、並んでる様はしっくりくるな。

都市大阪 文学の風景

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橋本寛之 『都市大阪 文学の風景』 2002

 

 通天閣、新世界、釜ヶ崎の本を読み始めて何冊目だろう。簡潔ながらも深くいい本であった。これがひとつの起源とでも言えるような。確かに酒井隆史通天閣』の中でジャンジャン横丁に関する重要なイメージを「卓抜」と形容して本書から引用しているが、『通天閣』はこの橋本氏の本を種に膨らませて書かれたものとみてよさそうである。

 書き直しのような少し重複する二部構成になっているが、第一部で取り上げられている大阪を舞台にした作品は大まかに、織田作之助夫婦善哉』、開高健『日本三文オペラ』、宮本輝『泥の河』である。これらの「小説」を軸にして大阪の街を検証していく本であるが、手がかりとなる別の書も次から次へとでてきて、しかも文学だけでなく地理的な知識も豊富で、読み応えがある。

 他にはどんな本を書かれているのか気になって調べてみるが、なんとこの一冊しか出てこない。プロフィールから計算するとこの本がでた2002年には69歳ということになる。これが最初で最後の書ということだろうか・・・それならば惜しいものがある。

 

中城モール

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 そのまま海向きに停めた車から、本一冊だけ持って外へ出た。

 黒いヤツと牛のヤツが座ってる後ろ、広がる海を背に、なんだろうか昼休みの時間なのかもう飲んでるのか作業着のおっちゃんらが4、5人わいわいやっている。

 浜の前では相変わらず無造作な海岸線と平行に並ぶ白いデッキチェアーに、数グループが座っていて、カバンから薬を取り出しているしぐさの老夫婦、弁当を食べている作業着のにーちゃんのペットボトルのお茶、ただ海に向かって座ってる人のプラスティックのチェアー。その一団のバックには隣の街が、ずっと向こうまで、「く」の字の海岸線に沿って伸びている。

 俺もよく来るんですよといった顔で海に向かって座り、本を開く。2行で閉じてまた海を見る。3行でやめて脇をみる。ようなことを数回繰り返し、差し込む日が照ると頭が暑く、木々が揺れ翳ると寒いような空の下、今度はしばらくたっただろうか、読むのは2度目のその本から顔をあげると、急に周りに人は居なくなっていて向こうに船が静かに走っていた。めがねをかけなおして船を見る。取って見る。

 カタコトのニホンゴが浮かれたまま口ずさむ、ワム!のクリスマスイブが店内のほうから聞こえてくる、あまりにのんびりした13時過ぎ、今日は12月の11日。やっぱり中城モールは観光名所だよなというのと、ケータイは止まっているのが一番だということをしみじみ実感する。

 振り返ったあの3階の家具屋のだだっぴろいガラス窓からみると、止まった絵画みたいでまた別の赴きみせるこの静かな湾を、また眺める。釣り人が海に入っていく。感情は特になにもない。作業船は無機質に遠くの球場の4つのライトのほうへゆっくりとゆく。そういえば風邪はよくなったようだ。

 帰り際、雲を抜けて、垂直に、まるで10代の勃起のように伸びていく白い飛行機雲を見た。

釜ヶ崎のススメ

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釜ヶ崎のススメ』 2011

 

 丁寧に作られた本だなと思った。それはそれだけの思い。これ1冊あれば、釜ヶ崎の成り立ち、歴史、住んでる人たちのこと、問題、現状、まで一通りわかると思われる。読んでいる途中にふと流れででてきた1990年の釜ヶ崎暴動の動画を見た。あの光景、その歴史や感情を知ったとなると、ただ怖いということではなく思いは色々でてくる。「まるで日本ではない」という感想、では日本とはなんだろうか。

 別でも書いたが、とにかくこの本の中心となろう原口剛さんの文が面白くてとても読み応えがある。序章「釜ヶ崎という地名」 第7章「騒乱のまち、釜ヶ崎」。ここんとこずっと新世界~釜ヶ崎の本を読んでいるがその中でもいちばんの印象。ご本人単身での著書はまだのようなのでぜひ読みたい。

テツ

 1972年の鈴木組闘争や第一回夏祭りのための三角公園奪還劇を知って、真っ先に思い浮かんだのはテツ。ヤクザどつき回す彼はヒーローじゃないけどやっぱりヒーローだったのかもしれん。じゃりン子チエの世界も労働者とヤクザと警察。ちょっとズレてんのは、テツは労働者じゃないことか(笑)。アウトロー

 『通天閣』に書かれていた小林佐兵衛が浮かぶ。侠客、ヤクザ、暴力団。 

 しかし『釜ヶ崎のススメ』の中で、原口剛さんの項が読み応えがあって物語としてとても面白い!もっと著書だしていただきたい。

あいりんと釜ヶ崎

(1961年に起こった第一次暴動を端に大掛かりな釜ヶ崎対策が開始され、)

家族を釜ヶ崎から移転させる、その一方でひとり身の労働者を流入させる。すると当然ながら、釜ヶ崎はひとり身の男性労働者のまちへと塗り替えられていく。1960年代の釜ヶ崎は、いまと同じく貧しい人びとが寄り集まるまちだったけれども、そこには家族や子どもの姿があった。現在、釜ヶ崎のまちを歩くと、道ですれ違うのはだいたい高齢の男性ばかりで、家族の姿はほとんど見かけられない。(『釜ヶ崎のススメ』p26)

 読み始めた『釜ヶ崎のススメ』、原口剛さんの序章からとてもよい。ここ読んで逆に思い出した、釜ヶ崎を調べるきっかけは、そうだ、萩之茶屋小学校が廃校になってしまったそのわけを知りたかったのだ。

 つまり「家族」は釜ヶ崎からでていってしまっていた。ここでは「だされた」と書かれている。

まず暴動が起こるような地域は家族にとって不健全だという理由で、家族をもっている労働者は、釜ヶ崎以外の地域へと移転させられていった。(『釜ヶ崎のススメ』p25)

 それでももちろんそこに住んでいる地域住民たちは居た。暴動やメディアの誇張ですぐさま恐ろしい場所とみなされてしまうようになってしまった街に住んでいる彼ら住民の気持ちは、「釜ヶ崎」ではなく新しく良いイメージへとつなぐ「あいりん」という呼び名へ。しかし同時に平行して、万博が終わり仕事は無くなったまま路上に投げ出されてしまった労働者たちにとっては、行政がとってつけた「あいりん」という呼び名はただ上から蓋をしただけのものあって、彼らは今も労働者の街「釜ヶ崎」を使い続ける。

地図・メディアに描かれた釜ヶ崎

水内俊雄 『地図・メディアに描かれた釜ヶ崎 大阪市西成区釜ヶ崎の批判的歴史地誌-

http://kamamat.org/yomimono/ronbun/mizuuchi_jinbun53.pdf

 

pdfで読めます。

 釜ヶ崎と現在も呼ばれる場所へのイメージ。その街の成り立ち。

 大島渚の『太陽の墓場』は個人的にとても好きな映画で、この界隈を調べる興味を持つきっかけにもなっていますが、このレポートの中ではある意味批判的に紹介されています。確かに。同じく大島渚の『夏の妹』、これは返還直後の沖縄を撮ったものですが、この映画も思い出せば、「沖縄ぽさ」の演出が、地元の人にはすぐわかります。壺屋を歩いていた次のカットで首里城近辺を歩いていたり、位置的な不具合、しかしそんなものはどの映画、映像作品にもあるものでしょうが、とりわけ『太陽の墓場』でのネガティブなイメージは強烈であったと想像されます。というか私自身もまさにそうなので、『太陽の墓場』の住民が住んでいるバラック集が実は正確には釜ヶ崎ではないという事実は、このレポートで初めて知り、釜ヶ崎という土地の見方やイメージを修正するきっかけになりそうです。

大阪モダン

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橋爪紳也 『大阪モダン』 1996

 

 あとがきも近い最後のほうに、「しかしビルの谷間をジェットコースターが駆け抜けてゆくという、じつに奇抜な複合施設が、まもなく完成する。加えて天然温泉も掘りあてられたそうだ。(p210)」とある。そう、この本がでたのは1996年で、その翌年にオープンするのがフェスティバルゲートである。今では過去となったオープン後のことを考えると、この未来系で書かれている文章がなんとも哀愁があって印象に残ってしまう。(※酒井隆史通天閣』のラストはこの本のこの未来への返答に読める。)

 今朝本を読み終え、フェスティバルゲートを調べてみよう。そう思ってた矢先にさっき、大阪出身の香取さんがお店に来ていたので、新世界の話をなにげに聞いてみたら、そのフェスティバルゲートの中にあったブリッジというハコで、面白いイベントや、FBI(フェスティバル・ビヨンド・イノセンス)というフェス?があって参加していたことを聞かせてもらった。なんというタイミング。単なる(?)遊園地じゃなかったんだ。興味がわいた。

 少し調べてみると面白いのは、元はレストランだった場所をオルタナティブスペースとして若者らが使っていたということで、つまりは元々は「単なる遊園地」だったのを、「占拠」して別の生きた空間に変えてしまっていたという状況は正に、新世界の歴史そのものである。最上階に位置し窓からジェットコースターが見えた「新世界ブリッジ」で行われていたカオスなイベント写真を見る限り、元の「空中展望レストラン」の面影は薄く、整然さをぶっ壊した先の輝き、大人の秘密基地感がムンムンしててそそる。これが大阪のパワーか。

 例えば廃墟となった那覇タワーの最上階をオルタナティブスペースとして使っていたか、使わせようとしたかということを考える。『がめつい奴』という釜ヶ崎の映画があるらしいが、大阪の「がめつさ」か。

新世界に、それが排除したあるいは抑圧した異質な「前近代的」要素が、ジャンジャン町という「腸管」をたどって当の新世界に逆流して復讐をとげる、というイメージは鮮烈きわまりない。ここが私たちの出発点である。】

酒井隆史通天閣』P162 注釈より