街はトワイライ

CD屋トマト先輩の日々

あいりんと釜ヶ崎

(1961年に起こった第一次暴動を端に大掛かりな釜ヶ崎対策が開始され、)

家族を釜ヶ崎から移転させる、その一方でひとり身の労働者を流入させる。すると当然ながら、釜ヶ崎はひとり身の男性労働者のまちへと塗り替えられていく。1960年代の釜ヶ崎は、いまと同じく貧しい人びとが寄り集まるまちだったけれども、そこには家族や子どもの姿があった。現在、釜ヶ崎のまちを歩くと、道ですれ違うのはだいたい高齢の男性ばかりで、家族の姿はほとんど見かけられない。(『釜ヶ崎のススメ』p26)

 読み始めた『釜ヶ崎のススメ』、原口剛さんの序章からとてもよい。ここ読んで逆に思い出した、釜ヶ崎を調べるきっかけは、そうだ、萩之茶屋小学校が廃校になってしまったそのわけを知りたかったのだ。

 つまり「家族」は釜ヶ崎からでていってしまっていた。ここでは「だされた」と書かれている。

まず暴動が起こるような地域は家族にとって不健全だという理由で、家族をもっている労働者は、釜ヶ崎以外の地域へと移転させられていった。(『釜ヶ崎のススメ』p25)

 それでももちろんそこに住んでいる地域住民たちは居た。暴動やメディアの誇張ですぐさま恐ろしい場所とみなされてしまうようになってしまった街に住んでいる彼ら住民の気持ちは、「釜ヶ崎」ではなく新しく良いイメージへとつなぐ「あいりん」という呼び名へ。しかし同時に平行して、万博が終わり仕事は無くなったまま路上に投げ出されてしまった労働者たちにとっては、行政がとってつけた「あいりん」という呼び名はただ上から蓋をしただけのものあって、彼らは今も労働者の街「釜ヶ崎」を使い続ける。

地図・メディアに描かれた釜ヶ崎

水内俊雄 『地図・メディアに描かれた釜ヶ崎 大阪市西成区釜ヶ崎の批判的歴史地誌-

http://kamamat.org/yomimono/ronbun/mizuuchi_jinbun53.pdf

 

pdfで読めます。

 釜ヶ崎と現在も呼ばれる場所へのイメージ。その街の成り立ち。

 大島渚の『太陽の墓場』は個人的にとても好きな映画で、この界隈を調べる興味を持つきっかけにもなっていますが、このレポートの中ではある意味批判的に紹介されています。確かに。同じく大島渚の『夏の妹』、これは返還直後の沖縄を撮ったものですが、この映画も思い出せば、「沖縄ぽさ」の演出が、地元の人にはすぐわかります。壺屋を歩いていた次のカットで首里城近辺を歩いていたり、位置的な不具合、しかしそんなものはどの映画、映像作品にもあるものでしょうが、とりわけ『太陽の墓場』でのネガティブなイメージは強烈であったと想像されます。というか私自身もまさにそうなので、『太陽の墓場』の住民が住んでいるバラック集が実は正確には釜ヶ崎ではないという事実は、このレポートで初めて知り、釜ヶ崎という土地の見方やイメージを修正するきっかけになりそうです。

大阪モダン

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橋爪紳也 『大阪モダン』 1996

 

 あとがきも近い最後のほうに、「しかしビルの谷間をジェットコースターが駆け抜けてゆくという、じつに奇抜な複合施設が、まもなく完成する。加えて天然温泉も掘りあてられたそうだ。(p210)」とある。そう、この本がでたのは1996年で、その翌年にオープンするのがフェスティバルゲートである。今では過去となったオープン後のことを考えると、この未来系で書かれている文章がなんとも哀愁があって印象に残ってしまう。(※酒井隆史通天閣』のラストはこの本のこの未来への返答に読める。)

 今朝本を読み終え、フェスティバルゲートを調べてみよう。そう思ってた矢先にさっき、大阪出身の香取さんがお店に来ていたので、新世界の話をなにげに聞いてみたら、そのフェスティバルゲートの中にあったブリッジというハコで、面白いイベントや、FBI(フェスティバル・ビヨンド・イノセンス)というフェス?があって参加していたことを聞かせてもらった。なんというタイミング。単なる(?)遊園地じゃなかったんだ。興味がわいた。

 少し調べてみると面白いのは、元はレストランだった場所をオルタナティブスペースとして若者らが使っていたということで、つまりは元々は「単なる遊園地」だったのを、「占拠」して別の生きた空間に変えてしまっていたという状況は正に、新世界の歴史そのものである。最上階に位置し窓からジェットコースターが見えた「新世界ブリッジ」で行われていたカオスなイベント写真を見る限り、元の「空中展望レストラン」の面影は薄く、整然さをぶっ壊した先の輝き、大人の秘密基地感がムンムンしててそそる。これが大阪のパワーか。

 例えば廃墟となった那覇タワーの最上階をオルタナティブスペースとして使っていたか、使わせようとしたかということを考える。『がめつい奴』という釜ヶ崎の映画があるらしいが、大阪の「がめつさ」か。

新世界に、それが排除したあるいは抑圧した異質な「前近代的」要素が、ジャンジャン町という「腸管」をたどって当の新世界に逆流して復讐をとげる、というイメージは鮮烈きわまりない。ここが私たちの出発点である。】

酒井隆史通天閣』P162 注釈より

恵美須通り

通天閣から、放射状に北に向かって合邦通、玉水通、恵美須通の3本の通りは現存し、合邦通の名はそのまま、玉水通が春日通、恵美須通は通天閣本通商店街となった。市電、阪堺電車の駅から通天閣に至るこの通りが一番の目抜き通りだった。

「新世界」恵美須通の二つの門 [浪華紙魚百景 大商大商業史博だより] - 大阪日日新聞

度々出てきた「恵美須通り」がどこかいまいちわからなかったが、なるほど。通天閣から放射線の三本の通り、東側(動物園)から順に合邦通、玉水通、恵美須通。新世界ができた直後、当初は四天王寺側へ向かう合邦通りが賑わうと予想していたが、どっこい恵美須駅へ向かう恵美須通りが賑わったようだ。建設の段階から阪堺電車と新世界には密接な関わりがある。

今宮村

http://kamamat.org/map/m41-7-1.jpg大阪今昔地図(?) 1908(明治41)年7月20日

http://kamamat.org/map/m41-5.jpg大阪市街全図 明治41年大新版 1908(明治41)年5月6日再版発行

 

まだ新世界が無い。阪堺線も無い。天王寺支線(元は馬車鉄道?)、高野線って古いんだなあ。

 

リンク元 釜ヶ崎資料センター 資料室トップ

寄席はるあき

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安藤鶴夫 / 金子桂三 『寄席はるあき』 1968-2006

 季節と景色がある。

 まだ新作に興味が無いのは、落語に求めてるのが、なにかしら大きな意味で「懐かしさ」というところが大きいからかもしれない。笑いたいから聞いているわけではない。話芸であるし、しかもひとりで座って、何も使わずにやってしまう落語というものは、存分にこちらのイメージを膨らませてくれる。同じ話を聞いていても、聞いてる人の中で浮かんでいる映像はみんな違うのだろうし、言えばそこが魅力だ。そのイメージというのはやはり、なつかしさ、こどもの頃、原風景というもののつながっていくのかもしれない。それぞれの持つ。

 輪をかけてこの本では著者が子どもの頃、婆ァやに連れられて毎日のように通っていた寄席の思い出、あの頃の風景が書かれていて、その「懐かしい」イメージは正に落語を聞いているようにぽーっとこちらの頭の中も照らす。コラム的に短い文でさらっとした読み物であったけど、とても気持ちがよくなる文章だった。

 そして写真が多くて、それがまたとてもいい!昭和30年代の寄席の風景。

天才 勝新太郎

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春日太一 『天才 勝新太郎』 2010

 

本人がとことん納得いくまでやったというフジテレビでの「座頭市物語」「新・座頭市」をみなければ。手元にあるのは釜ヶ崎の某所(今年行ったら無くなってた・・)で500円で買ったDVD「ど根性一代」、なかなか好きな映画だし、確か台詞は関西弁で、そうではなくてもイメージ的にずっと関西の人だと思っていたのは、大映が長かったからということか。

この本は、その一生を時間軸に沿って足早に巡っていく書き方で、少々読み物としては物足りないものもあったが、それは自分があまりに勝新のことを知らなかったからなのかもしれない。とにかく映像が動いてる姿が見たくなっている。

潮風にちぎれて

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松任谷由実 『潮風にちぎれて / 消灯飛行』 1977.5

 

いちばん好きなユーミンのシングル。と言ってしまいましょう。

結婚後、「松任谷」になっての第一弾シングル。AB面共にオリジナルアルバムには未収録。 「荒井」でのラストとなるひとつ前のアルバム『The 14th Moon』が1976年11月発売なので、このシングルまで半年しか経ってないけれど、随分ムードの違う、なんというか夢心地、どっちかというと『ひこうき雲』や『MISSLIM』に近い素朴さを持った2曲で、これを聞くと、あ、これは「松任谷」も聞かなきゃ・・・となること請け合い。当初は結婚後は引退を考えていたようなので、置き土産的な作品だったんじゃないかなあと思いつつ、このポワポワした心ここにあらずムードは松任谷名義での1st『紅雀』(1978.3)に受け継がれています。(次の『流線形'80』1978.11はまた一転、華やかで松任谷由実スタート!といえる作品に)

A面「潮風にちぎれて」

好きなユーミン10挙げたら入る1曲。「泳ぐにはまだ早い」晴れてる春の日にお別れ、というシチュエーションの女の子の感情を、海と風の中に写す、さりげないけどポップだからこそ泣ける(だけど泣かない!)1曲で、最後の歌詞は邦楽史に残る捨て台詞なんじゃないかなと思ってます。

 

B面「消灯飛行」

ユーミン好きが今も気にしている特別な1曲。というのもこの曲は今現在も未CD化で、幻の一曲になっています。(正確には8cmシングルシリーズでリリースあり)。何をこんなにもったいぶって!やーもうそろそろなんかのコンピにでも入るだろうよ。というのがファンの気持ちでしょう。それもそのはずこの曲もA面に劣らず、ものすごく視覚的に美しい印象的な一曲であり、飛行機の窓から見下ろす夜の街、、シンプルでひどく落ち着いたアレンジが遠ざかっていく飛行機と気持ちを描く静かな秀曲。

 


1976年3月5日 翳りゆく部屋
1976年11月20日 The 14th Moon
↑荒井 
    松任谷↓
1977年5月5日 潮風にちぎれて 消灯飛行
1977年11月5日 遠い旅路
*1977年12月25日ALBUM
1978年3月5日 紅雀(べにすずめ)
1978年11月5日 流線形'80

 

 今日調べて思ったのは、やはりこの松任谷になってからの2枚のシングル「潮風にちぎれて」「遠い旅路」はアルバム先行って感じではない、別な位置にあるものだということ。当初の予定通り「遠い旅路」がドラマの主題歌になって世に出ていて本人も満足していたら、ほんとにそれで卒業だったのかもしれない。+本人、唯一の汚点と振り返る無理やりリリースされたベスト『ALBUM』が出ていなかったら。

 

通天閣

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酒井隆史 『通天閣』 2011

 

頭が通天閣

やっと読み終えた。734ページ。

参考文献だけで14ページある。芋づる式にいくつもさらに気になる本があるが、チェックするのに半年はかかるんでは。

 

感想とはいってもありすぎでそれ書くのにも半年・・・はかからないが、また調べしだい記していきたい。正直、1章と5章意外はかなり読むのにしんどいことが多かった。大正から抜けないし、一体なんの本を読んでいるのだったかわからなくなる内容、迷路と混沌とそれも意図でもあろうが、、、なんというか今までに無い本を。となるとやはりこうならざるを得ない、調べてるうちにこうなってしまったのだろう。『文学界』のインタビューの最後に、今度はもっとカジュアルな感じで大阪を書いてみたいとも話されていたので、それも読みたい。

 

しかしながら読み終えたあと、何人かの人の顔が浮かぶ。別の場所で通天閣をみあげていた、見下ろしてた人たち。そのような街全体の匂いが感じられたのはやはりよい経験であった。最後のまるでほくそえむかのような、ホラー映画の最後の最後に仲間の目がキラリ!な終わり方もすごかったし、いろいろな意味でぐるぐるまだ回っている。

 

大島渚『太陽の墓場』をとりあげ、夕陽丘からの夕焼けのシーン「ここでの通天閣は、私の接したかぎりの通天閣の視覚的イメージのなかでもっとも美しいものであるようにおもう。」(P668)とあって、この映画好きにはとても嬉しかった。

 

我に返って、なんでオレはこんなに大阪のこと調べてるんだろ!って思いもするが、つまりはなぜこんなにここにひきつけられるのか。それを知りたいのかもしれない。