街はトワイライ

CD屋トマト先輩の日々

中城モール

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 そのまま海向きに停めた車から、本一冊だけ持って外へ出た。

 黒いヤツと牛のヤツが座ってる後ろ、広がる海を背に、なんだろうか昼休みの時間なのかもう飲んでるのか作業着のおっちゃんらが4、5人わいわいやっている。

 浜の前では相変わらず無造作な海岸線と平行に並ぶ白いデッキチェアーに、数グループが座っていて、カバンから薬を取り出しているしぐさの老夫婦、弁当を食べている作業着のにーちゃんのペットボトルのお茶、ただ海に向かって座ってる人のプラスティックのチェアー。その一団のバックには隣の街が、ずっと向こうまで、「く」の字の海岸線に沿って伸びている。

 俺もよく来るんですよといった顔で海に向かって座り、本を開く。2行で閉じてまた海を見る。3行でやめて脇をみる。ようなことを数回繰り返し、差し込む日が照ると頭が暑く、木々が揺れ翳ると寒いような空の下、今度はしばらくたっただろうか、読むのは2度目のその本から顔をあげると、急に周りに人は居なくなっていて向こうに船が静かに走っていた。めがねをかけなおして船を見る。取って見る。

 カタコトのニホンゴが浮かれたまま口ずさむ、ワム!のクリスマスイブが店内のほうから聞こえてくる、あまりにのんびりした13時過ぎ、今日は12月の11日。やっぱり中城モールは観光名所だよなというのと、ケータイは止まっているのが一番だということをしみじみ実感する。

 振り返ったあの3階の家具屋のだだっぴろいガラス窓からみると、止まった絵画みたいでまた別の赴きみせるこの静かな湾を、また眺める。釣り人が海に入っていく。感情は特になにもない。作業船は無機質に遠くの球場の4つのライトのほうへゆっくりとゆく。そういえば風邪はよくなったようだ。

 帰り際、雲を抜けて、垂直に、まるで10代の勃起のように伸びていく白い飛行機雲を見た。

釜ヶ崎のススメ

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釜ヶ崎のススメ』 2011

 

 丁寧に作られた本だなと思った。それはそれだけの思い。これ1冊あれば、釜ヶ崎の成り立ち、歴史、住んでる人たちのこと、問題、現状、まで一通りわかると思われる。読んでいる途中にふと流れででてきた1990年の釜ヶ崎暴動の動画を見た。あの光景、その歴史や感情を知ったとなると、ただ怖いということではなく思いは色々でてくる。「まるで日本ではない」という感想、では日本とはなんだろうか。

 別でも書いたが、とにかくこの本の中心となろう原口剛さんの文が面白くてとても読み応えがある。序章「釜ヶ崎という地名」 第7章「騒乱のまち、釜ヶ崎」。ここんとこずっと新世界~釜ヶ崎の本を読んでいるがその中でもいちばんの印象。ご本人単身での著書はまだのようなのでぜひ読みたい。

テツ

 1972年の鈴木組闘争や第一回夏祭りのための三角公園奪還劇を知って、真っ先に思い浮かんだのはテツ。ヤクザどつき回す彼はヒーローじゃないけどやっぱりヒーローだったのかもしれん。じゃりン子チエの世界も労働者とヤクザと警察。ちょっとズレてんのは、テツは労働者じゃないことか(笑)。アウトロー

 『通天閣』に書かれていた小林佐兵衛が浮かぶ。侠客、ヤクザ、暴力団。 

 しかし『釜ヶ崎のススメ』の中で、原口剛さんの項が読み応えがあって物語としてとても面白い!もっと著書だしていただきたい。

あいりんと釜ヶ崎

(1961年に起こった第一次暴動を端に大掛かりな釜ヶ崎対策が開始され、)

家族を釜ヶ崎から移転させる、その一方でひとり身の労働者を流入させる。すると当然ながら、釜ヶ崎はひとり身の男性労働者のまちへと塗り替えられていく。1960年代の釜ヶ崎は、いまと同じく貧しい人びとが寄り集まるまちだったけれども、そこには家族や子どもの姿があった。現在、釜ヶ崎のまちを歩くと、道ですれ違うのはだいたい高齢の男性ばかりで、家族の姿はほとんど見かけられない。(『釜ヶ崎のススメ』p26)

 読み始めた『釜ヶ崎のススメ』、原口剛さんの序章からとてもよい。ここ読んで逆に思い出した、釜ヶ崎を調べるきっかけは、そうだ、萩之茶屋小学校が廃校になってしまったそのわけを知りたかったのだ。

 つまり「家族」は釜ヶ崎からでていってしまっていた。ここでは「だされた」と書かれている。

まず暴動が起こるような地域は家族にとって不健全だという理由で、家族をもっている労働者は、釜ヶ崎以外の地域へと移転させられていった。(『釜ヶ崎のススメ』p25)

 それでももちろんそこに住んでいる地域住民たちは居た。暴動やメディアの誇張ですぐさま恐ろしい場所とみなされてしまうようになってしまった街に住んでいる彼ら住民の気持ちは、「釜ヶ崎」ではなく新しく良いイメージへとつなぐ「あいりん」という呼び名へ。しかし同時に平行して、万博が終わり仕事は無くなったまま路上に投げ出されてしまった労働者たちにとっては、行政がとってつけた「あいりん」という呼び名はただ上から蓋をしただけのものあって、彼らは今も労働者の街「釜ヶ崎」を使い続ける。

地図・メディアに描かれた釜ヶ崎

水内俊雄 『地図・メディアに描かれた釜ヶ崎 大阪市西成区釜ヶ崎の批判的歴史地誌-

http://kamamat.org/yomimono/ronbun/mizuuchi_jinbun53.pdf

 

pdfで読めます。

 釜ヶ崎と現在も呼ばれる場所へのイメージ。その街の成り立ち。

 大島渚の『太陽の墓場』は個人的にとても好きな映画で、この界隈を調べる興味を持つきっかけにもなっていますが、このレポートの中ではある意味批判的に紹介されています。確かに。同じく大島渚の『夏の妹』、これは返還直後の沖縄を撮ったものですが、この映画も思い出せば、「沖縄ぽさ」の演出が、地元の人にはすぐわかります。壺屋を歩いていた次のカットで首里城近辺を歩いていたり、位置的な不具合、しかしそんなものはどの映画、映像作品にもあるものでしょうが、とりわけ『太陽の墓場』でのネガティブなイメージは強烈であったと想像されます。というか私自身もまさにそうなので、『太陽の墓場』の住民が住んでいるバラック集が実は正確には釜ヶ崎ではないという事実は、このレポートで初めて知り、釜ヶ崎という土地の見方やイメージを修正するきっかけになりそうです。

大阪モダン

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橋爪紳也 『大阪モダン』 1996

 

 あとがきも近い最後のほうに、「しかしビルの谷間をジェットコースターが駆け抜けてゆくという、じつに奇抜な複合施設が、まもなく完成する。加えて天然温泉も掘りあてられたそうだ。(p210)」とある。そう、この本がでたのは1996年で、その翌年にオープンするのがフェスティバルゲートである。今では過去となったオープン後のことを考えると、この未来系で書かれている文章がなんとも哀愁があって印象に残ってしまう。(※酒井隆史通天閣』のラストはこの本のこの未来への返答に読める。)

 今朝本を読み終え、フェスティバルゲートを調べてみよう。そう思ってた矢先にさっき、大阪出身の香取さんがお店に来ていたので、新世界の話をなにげに聞いてみたら、そのフェスティバルゲートの中にあったブリッジというハコで、面白いイベントや、FBI(フェスティバル・ビヨンド・イノセンス)というフェス?があって参加していたことを聞かせてもらった。なんというタイミング。単なる(?)遊園地じゃなかったんだ。興味がわいた。

 少し調べてみると面白いのは、元はレストランだった場所をオルタナティブスペースとして若者らが使っていたということで、つまりは元々は「単なる遊園地」だったのを、「占拠」して別の生きた空間に変えてしまっていたという状況は正に、新世界の歴史そのものである。最上階に位置し窓からジェットコースターが見えた「新世界ブリッジ」で行われていたカオスなイベント写真を見る限り、元の「空中展望レストラン」の面影は薄く、整然さをぶっ壊した先の輝き、大人の秘密基地感がムンムンしててそそる。これが大阪のパワーか。

 例えば廃墟となった那覇タワーの最上階をオルタナティブスペースとして使っていたか、使わせようとしたかということを考える。『がめつい奴』という釜ヶ崎の映画があるらしいが、大阪の「がめつさ」か。

新世界に、それが排除したあるいは抑圧した異質な「前近代的」要素が、ジャンジャン町という「腸管」をたどって当の新世界に逆流して復讐をとげる、というイメージは鮮烈きわまりない。ここが私たちの出発点である。】

酒井隆史通天閣』P162 注釈より

恵美須通り

通天閣から、放射状に北に向かって合邦通、玉水通、恵美須通の3本の通りは現存し、合邦通の名はそのまま、玉水通が春日通、恵美須通は通天閣本通商店街となった。市電、阪堺電車の駅から通天閣に至るこの通りが一番の目抜き通りだった。

「新世界」恵美須通の二つの門 [浪華紙魚百景 大商大商業史博だより] - 大阪日日新聞

度々出てきた「恵美須通り」がどこかいまいちわからなかったが、なるほど。通天閣から放射線の三本の通り、東側(動物園)から順に合邦通、玉水通、恵美須通。新世界ができた直後、当初は四天王寺側へ向かう合邦通りが賑わうと予想していたが、どっこい恵美須駅へ向かう恵美須通りが賑わったようだ。建設の段階から阪堺電車と新世界には密接な関わりがある。

今宮村

http://kamamat.org/map/m41-7-1.jpg大阪今昔地図(?) 1908(明治41)年7月20日

http://kamamat.org/map/m41-5.jpg大阪市街全図 明治41年大新版 1908(明治41)年5月6日再版発行

 

まだ新世界が無い。阪堺線も無い。天王寺支線(元は馬車鉄道?)、高野線って古いんだなあ。

 

リンク元 釜ヶ崎資料センター 資料室トップ

寄席はるあき

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安藤鶴夫 / 金子桂三 『寄席はるあき』 1968-2006

 季節と景色がある。

 まだ新作に興味が無いのは、落語に求めてるのが、なにかしら大きな意味で「懐かしさ」というところが大きいからかもしれない。笑いたいから聞いているわけではない。話芸であるし、しかもひとりで座って、何も使わずにやってしまう落語というものは、存分にこちらのイメージを膨らませてくれる。同じ話を聞いていても、聞いてる人の中で浮かんでいる映像はみんな違うのだろうし、言えばそこが魅力だ。そのイメージというのはやはり、なつかしさ、こどもの頃、原風景というもののつながっていくのかもしれない。それぞれの持つ。

 輪をかけてこの本では著者が子どもの頃、婆ァやに連れられて毎日のように通っていた寄席の思い出、あの頃の風景が書かれていて、その「懐かしい」イメージは正に落語を聞いているようにぽーっとこちらの頭の中も照らす。コラム的に短い文でさらっとした読み物であったけど、とても気持ちがよくなる文章だった。

 そして写真が多くて、それがまたとてもいい!昭和30年代の寄席の風景。