街はトワイライ

CD屋トマト先輩の日々

坂本龍一『12』

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 やはりCDで聴きたくて手に入れた。

1月にリリースの情報を見てすぐにサブスクで一聴して、ああこの感じなんだなと、そのままだったくらいの教授リスナーである。あまりよく知りません。

 2023年4月2日に訃報のニュース。それが思いのほか後を引いた。それからもう一度サブスクで『12』を聞いた。1月に聞いた時とはやっぱり全く伝わる印象が違う。聞きながらこんなにいろんな事を考えてしまうアルバムが今まであっただろうか。そういう意味ではアーティスト本人の死を持って完成したと言っても暴言とは言い切れない作品だろうし(それが本人の意図していたものかどうかの議論はテーマとして持ちつつ)、死後リリースとか、結果的にラストアルバムになった作品は数多くも、『12』のような状況での作品との対面ははじめてのように思う。

 ジャケットのイメージも大きいだろうが、川のイメージを持ちながらサブスクで繰り返し聞いていた。このアンビエント的アルバムを前に、ブライアンイーノが自身の自動生成音楽を川に例えていたのも大きい。川は希望だろうか、絶望だろうか。川は嬉しいだろうか、悲しいだろうか、そんなイメージが浮かぶ。海でもいいし光でもいいし葉っぱでもいい、自然(=生命か?)は希望であろうか、絶望であろうか?どっちでもないしどっちでもある。その感覚を『12』の中に感じる。

 前から音楽(=芸術?)ってなんだろう?と考える時に、あまりにも巨大な自然に対して人間が唯一おこなうもがき/抗いなんじゃないかと考えているが、それは自然界には無い整えるという行為であり(それはまた美しさとはなんだろう?という終わらないテーマにも通じるが)、メロディやリズム、和音というような規則性や馴染みを生み出す曲をつくるという行為は、あまりにカオス=訳のわからない生命というものに対しての、小さな人間の行うささやかな抵抗じゃないか?と思っているわけである。

 と考えているので、がんばって抵抗している作品には興味を持つし、そういう意味では自身が自然になりきろうとしている完全なる即興/インプロ(特に録音物)にはあまり興味が無い。そんなものを聞くより直に風や鳥の声を聴いた方がいいから。『12』にはそのどちらもうまく溶け込んでいるなと感じる。整える行為と自然へのあこがれとどちらも。川の絶望も希望もどちらも。

 できそうでほぼうまく完成しないはずの、人間と反人間、意識と無意識、の演奏がこうして作品となりうるのは、病気や死を別にしても坂本龍一のこれまでの莫大な経験と技術によるものだろう。すべてがおぼろげであるが、同時にとてもずっしりと腰が据わっていると感じる。

 

 と、上記に一気に書いたのが、昨日ついに手に入れたばかりのフィジカルCDを流しながら考えていることだ。これから繰り返し繰り返し聞くのだろうか、そこでまた考えたり見えたりすることがあるだろうか、あればまた書きたい。

 8曲目だけ”sarabande”と副題がついていることについて、

サラバンドバロック時代の組曲に組み入れられた舞曲の一つで、スペインの舞曲です。三拍子のゆっくり優雅な踊りを想像してほしくて、これだけには付記しました。https://twitter.com/ryuichisakamoto/status/1634306704656543744?s=20

とあり、サラバンド?という音楽知識はもちろんのこと、このゆったりしたアルバムの中に、舞踏の情景が含まれていることにものすごく膨らんでいくものを感じている。『12』は単なるセンチメンタルや憐みを抱かせるような作品なんかでは全くない。